新野の民族芸能
1 雪まつり
新野の雪まつりは、国の無形文化財に指定されています。1月13日、朝6時半に伊豆社から諏訪社に祭りの衣装や面が運ばれるお下りから始まります。諏訪社では、雪まつりの幸法・もどきなどの役を決め、お滝入りに行き身を清めた後、諏訪社の祭りが始まります。14日の夕方、諏訪社から伊豆社へ神様が移動するお上りから15日の朝の田遊びまで延々とお祭りが行われます。
幸法は、舞の中で最高の役です。幸法だけ、衣装を他の人が付けてくれます。幸法は、9回出てきます。7回目と9回目には、ササラを連れて出てきます。幸法だけで、2時間近くかかります。
天狗(てんごう)は、”鬼舞”ともいわれます。三匹の鬼、太郎・次郎・三郎は、斧・片槌・両槌を持ち、腰抱きといわれる介添えに支えられながら庁屋から出てきます。三鬼は、庭でかかとを上げ下ろししながら、斧と槌を打ち合わせます。やがて、禰宜衆が出てきて三鬼と相対し激しく問答を交わし、最後に禰宜衆が鬼を言い負かします。鬼は、首をうなだれて庁屋に帰ります。寺院の正月の行事修正会の鬼追いの作法が影響したものと考えられます。(三隅治雄氏)新野の雪まつりの天狗は、とてもユーモラスで人気のある演目です。
新野の雪祭りは、1月13日の朝6時から行われる「お下り」から始まります。栃洞の伊豆社を出発して、大村の諏訪社に祭りの道具を運ぶ儀式です。輿の中には、祭りに使うお面が入っています。隊列の順番も決まっています。笛と太鼓を鳴らしながら、賑やかに隊列は進みます。沿道では、地域の方が神の行列が通のを見守っています。
諏訪社では、役決めのくじを行います。神主が、希望者の書かれた紙片の上を御幣でなぞり、御幣に付いたものがその役をします。今は参加者が少ないので、幸法、茂登喜、競馬のみくじを行い、後は奉仕者同士で役を決めています。役が決まると試楽が始まります。生直切、海道下り、神羽など行い、昼食を食べた後、小滝入りとなります。小滝入りは、諏訪社の南500メートルほどの井林下にある「お滝」へ行き、祭りに参加する者か゛禊ぎを行う行事です。 寒い年は、お滝の周りは一面雪で覆われ氷柱ができます。今年は、とても暖かい雪祭りになりました。
「令和5年の雪祭り」
今年は、コロナのために3年間できなかった雪祭りを行うことができました。新野も人口減少・高齢化が進み、雪祭りの舞手が少なくなりました。また、人口減少により祭り参加する人が少なくなったこと、ぶくが重なり祭りができるか心配されましたが、若者の参加と地域の方々の協力で無事に祭りを行うことができました。新野の雪祭りをこれからも続けていえるように願っています。
「令和6年の雪祭り」
今年は、母が昨年亡くなったのでぶくで雪祭りに参加できませんでした。諏訪社から伊豆社へのお上りの写真を撮りましたので掲載します。今年の雪祭りは、舞と楽の人が少なく大変でしたが、若者が舞の役を行い無事に行われたそうです。新野の雪祭りも世代交代が進んでいるようです。
2 新野の盆踊り
新野の盆踊りは、平成10年(1998)に国重要無形民俗文化財に指定されています。一つの地域に二つの国重要無形民俗文化財に指定されている行事があるのは珍しことです。
それは、新野が都会から離れいながら、交通の要衝宿場町として栄えていてたからではないでしょうか。
新野の盆踊りは、室町時代の享禄2年(1529)に光国舜玉和尚を開山として瑞光院を建立したときに、この地を訪れた三河の振草下田(現東栄町)の人々と共に踊った時から始まったといわれています。盆踊りは、最初、関氏の日差城の門前で踊っていたましたが、山よりの道が開かれると市上様も高札場も移されてそこで踊るようになりました。その後、大門村(大村・寺山・原町)は大村の踊り場、町村は向かいの高札場、砂田村は牧之原の太子堂前で踊られるようになりました。またその後、大村と向かいの2カ所で踊られるようになり、昭和41年大村が向かいに統一されて一つになりました。
新野の盆踊りの特徴は、太鼓や笛、鉦や三味線などの鳴り物がなく、音頭取りの歌に合わせて踊ることです。盆の最後の17日の早朝には、鉦と太鼓を売りながら精霊を村境まで送り出します。さらに新盆の家の行事と密接に関わる点で、盆の信仰行事としての性格が強いことが特色です。
新野の盆踊りは、8月14、15、16日の3日間、夕方から朝まで踊られる。踊りには、「すくいさ」「音頭」「高い山」「おさま(おさま甚句)」「十六」「おやま」「能登」の七種がります。このうち「能登」は、17日の朝と盂蘭盆の翌朝だけに踊られます。